YAMANEcoaching.blog

自分の人生、自分だけの人生、やりたいことをやりたいようにやれた方が幸せなんじゃないのか。そう実感してからコーチングをはじめ、自分の理解者は自分しかいない。やりたいことを自分に素直い生きるためにコンサルタントとして活動しています。

失敗しない挑戦の仕方ーうまくいく人は〇〇がない

 

ビビるな
 
 
どんな時でもビビってはいけない。
自分で決めて自分で挑戦する。
その責任は自分で拭う。
 
 
それが自立した人間がやること。
主体性をもった人間がやることだ。
 

 
今日、ある尊敬している経営者の方に
帰り際にばったり会って、言われたのが

「恐怖に打ち勝つこと」
「完璧ではない自分に責任を持つこと」
「常に挑戦し続けること」

つまり、ビビらずに前に進め
ということですね。
 
 
それを改て思い知りました。
 
 
知識が増えれば増えるほど、
陥りやすいものがあると思います。
 
 
それは正解が今の自分とはほど遠いということ。
そしてその正解を作れないレベルにいるのにも関わらず
正解を作ろうとすること。
 
 
そして挑戦を怠るようになること。
 
 
結局人は今の自分のレベルを知った上でじゃないと
技も何も使いこなすことなんて決してできない。
 
 
やりたいこととかもそうですね。
 
 
やりたいことがないっていう人って最近よくいますよね。
だからこそ自己分析とか自分を知ることとか
いろんなことを挑戦したりしている
 
 
それは間違っていないとは思う。
 
 
だけど、その行動一つ一つがなんのためにやっているのか
そこまで考えられていないのならば、
その行動はきっと時間に見合ったものを
得られることは少ないだろう。
 
 
若い時間は有限。
だからこそ、この時間をいかに使うかで、
その先の人生は大きく変わってきてします。
 
 
やりたいことがないなら、まずはやりたいことなんて
自分には存在しないんだ。少ないくとも今の状態では。
でいいのではないか?
 
 
決めることは確かに大事。だけどやりたいことを
見つけるために成長すること、経験すること、
やりたいことが見つかった時にできる状態を
作っておくということが大事になってくるのでは
ないだろうか。
 
 
きっとやりたいことを実現できる状態になって
初めて、やりたいことって見つかるように
なっているんだと思う。
 
 
そもそもそこまでのレベルと経験がない時に
見つかるわけがないんだ。 

 
わかりやすくいうとポケモンと全て同じということ。
 
 
ポケモンって、最初はあんなに小さくて
レベル5とかの時は「体当たり」しか覚えてないですよね
 
 
だけどその体当たりで戦った
敵を倒したり体力がなくなってしにそうになったり
ポケモンセンターで助けてもらったり

 
そうやっていろんな経験を数多くこなす中で
初めて、「ひのこ」だとか「みずでっぽう」だとか
少し強い技を使いこなせるようになっていく。
 
 
レベルが5だったヒトカゲが、
草むらでわさわさたくさんして、
いろんな人と戦って、倒したり、逃げたり、
負けたりしながら経験値をためていって、
気がついたらレベルが20になっている。
 
 
その頃には、「ひのこ」を自然と使えるように
なっていて、そして気がついたら進化できる
レベルになっている。
 
 
そして「ヒトカゲ」から「リザード」になり
そして「リザードン」になる。
 
 
その時には、自然と「かえんほうしゃ」を
使えるようになっている訳で。
 
 
レベルが上がれば、自然と進化していき、
技が増えていくもの。
 
 
だけど、それは普通にはできることではないんだ。
 
 
レベルが上がるためには「経験値」を貯めることが必要。
それも圧倒的な経験値を。
 
 
だからこそ、常に考えるべきことは、
どうやったらもっとよくなるのか?
これをやったらどうなるのか?
どっちの方が経験値を貯められそうなのか?
 
 
常に進化する経験値を貯められる方向を
自分で選んでいくことこそが自分の成長に
繋がっていく。
 
 
迷ったら挑戦。選ぶのは挑戦。試したら反省。
試したらどうだったのかしっかりと考えること。
 
 
ただやるバカは一生バカ。
バカになることは大事だが、
振り返れないバカと挑戦できないバカは
救いようのないバカだろう。
 
 
そんなバカにならないように、
もっと高みを目指して考えられる、
そして挑戦できるバカになろう。

 

 

 

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あなたの周りには本当の仲間はいますか?

「大丈夫」って言える仲
 
 
昨日地元の友達と
夜中までLINEしてたんだけど
(気づいたら朝だったが。笑)
改めて友達とか仲間って何かって少し形付いたような気がする。
 
 
人間関係とか、仲間とか、
高校までずっと野球をやってきたが、
改めて考えるとなんなのかがよくわからなかった。
 
 
というか、そこまで深く考えたことすらなかった笑
 
 
部活をやっていると、
常に横にいるのが仲間だったし、
家族よりもずっと一緒にいるのが仲間だと思っていた。
 
 
だって朝の6時とかから、
夜の22時とかまでずっと一緒にいて、
ずっと同じ目標に向かって練習してるんだもん
 
 
そりゃあ仲間って思うしかないでしょ笑
 
 
だけど、大学にきてみて、
そんな付き合いってなくなったなーって
思うようになった。
 
 
人間関係って人それぞれ考え方とか重きの置き方とか
違うと思うんだけど、
 
 
自分が思っていたことは、
やっぱり会わない期間が長くなりすぎると
どうしても距離が離れていってしまうものだ。
ということだった
 
 
だから数会ってる人は特に重きをおくようになるし
数会えない人はどうしても心の距離が遠くなって行く
ような気がしていた。
 
 
だけどそんなことないんだなって
地元の友達とLINEしてて思ったんだよね笑
 
 
時間によって距離が離れて行くことも
確かにある。
 
 
だけど、それってきっと
まだそれだけ深い関係ではないってことなんだと思うんだよね笑
 
 
だからこそ、いけないんじゃなくて、
これからもっと仲良くなれるチャンスがある!
だからたくさん会うし、深い話もするし、
一緒に遊んだりもする。
 
 
もっと深くなれるチャンスが
その関係にはあるからこそ面白いんだよね笑
 
 
逆に地元の友達や、なんか仲良かった人って
どれだけ会わなくても、会話しなくても
変わらない人は変わらないし、
久々に会ったとしても昔を思い出すように
一瞬で仲良くなれる
 
 
ってことはそんなに会わなくていいっていうのは
事実なんだと思う笑
 
 
だってそこはきっと帰る場所なんだからさ
 
 
帰りたい時に帰ってきていいんだよって
迎え入れてくれるような素直で接してくれる
そんな人はきっと帰る場所になってくれてる人なんだよね
 
 
だからこそ、充電が切れたら思い出せばいい
 
 
ステージは違ったとしても
みんな同じように頑張ってるんだって
 
 
だからこそ負けちゃダメだって
そう強く踏ん張れるためにいるのが仲間っていう
ものなんじゃないのかな
 
 
「大丈夫。お前ならできるから。」って
そう言葉でもいい。なんでもいい。
それを伝えられる、そしてもう一歩踏み出せる
後押しをしてあげれる人がきっと仲間なんだろう。
 
 
なんかそんな気がした。
 
 
だからこそ、今関わっている人も、
一緒に仕事をしてくれている人も、
支えてくれている人も、
 
 
全員がそんな関係になれることが
きっと自分にとっての人間関係のゴールなんだと思う
 
 
それが部活の時でもそうだった仲間っていう
存在なんだと思う。
 
 
部活の時はそうだったはず。
指摘はするし、めちゃくちゃ厳しく接するのは当然。
だけど、バッターボックスに立ってるメンバーが
今の主役だ。
 
 
この一球を投げるピッチャーが今の主役。
打球が飛んできたポジションの選手が今の主役。
 
 
一人一人が主役で、その一人一人に
気持ちが乗っててやれるよ!打てよ!取れよ!投げろよ!
頑張れ!もうちょっと!いける!
 
 
そしてできた時、結果としてうまくいった時
「よっしゃー!!」と喜んでた
 
 
ミスしたとしても、「大丈夫!次々!!」
ってそうやって全員でカバーしあってた。
 
  
特に技術がなく、エラーばかりしてた自分は
指摘ばかりで辛かった。
 
 
大丈夫の声を素直に聞けなかった時だってある。
だけど大丈夫って言ってくれる人が
後ろにいたり、ベンチにいたり、することが
きっと大事なことだったんだよね
 
 
自分はどっちかと言うと、
大丈夫だよ!次やろう!次取ろう!
ってずっと言ってきた身だった。
 
 
きっと自分が一番言われたかった言葉だからこそ
一番に言ってたんだと思う。
 
 
ミスった人がいたら、大丈夫だよって
「いやー足動いてないよー笑 じゃあゲッツーで見せようぜ笑」
って解釈を全部ポジティブに変えてた。
 
 
だけど自分のことになると、
それができなかったんだよね笑
 
 
言ってるくせに、自分はできてないじゃん、
ってずっと思ってた。
 
 
だから考えすぎるってこともあったけど
それが原動力になってたんだなって今になって思う。
 
 
だからこそ大丈夫って言えるような
なかになろう。素直な自分の言葉で大丈夫って。
 
 
考えすぎても何も生まれない。
だからこそ大丈夫だって。次やればいいじゃん。って。
そう言ってあげれる人になること。
 
 
解釈をポジティブに変えてあげれる人に
なって行くこと。
 
 
そして自分にもいけるやん!
って、と言うか何も考えずに楽しんでやること。ですね。

 

 

 

人生とはなにか

今日は、ふと思いつくこと全部描いてみようと思って

ブログを久しぶりに更新します。

 

 

 

相変わらず悩みが尽きない僕ですが、

なんかこの歳でここまで悩めることが

ものすごく幸福なことなんだなって

改めて感じることができるようになりました。

 

 

 

悩めることが幸せって

なんか不思議ですよね笑

 

 

 

ずっとずっと結果が出ずに、

逃げ場もなく、向き合うしかなく、考える癖から

逃げることさえできず、

 

 

 

人生からも逃げようとしていた自分ですが

ようやくなんとなく、なんとなくわかったものが

ある気がするのでまとめてみようと思います。

 

 

 

さて、こいつは何を言っているんだ

と思っている人もいるとは思いますが、

見てくれているだけ感謝しなきゃいけませんね笑

 

 

 

書きたいことが多すぎて

何から描いていこうかな。

伝えようとせずに、思うがまま描いて行きます。

 

 

 

じゃあとりあえず

 

「なんのために生きているのか」

 

というところから話していきますかね。

 

 

 

「人生には目的がある。」

そういろんな偉人が言っています。

 

また、「人生には目的なんかない。

産まれちゃったからいきてるだけだ」

という人もいます。

 

 

 

なんかすごい矛盾ですよね笑

 

ここまで意見が違うって頭がおかしいのかとさえ

思ってしまいますが、

本来はこの目的っていうことを考えることさえ

どっちでもいいことなんだな

 

 

 

っていうことに気がつくことができました。

 

 

 

ちなみに言っておくと、

これが全てではないです。

 

この考えは、今日、2017_07_21日時点での

山根の考えなので幼稚かもしれませんし、

それ以上でもそれ以下でもないかもしれません。

 

これが正解かも不正解かもしれませんし、

結局何が言いたいのかもわからないかもしれません

 

 

 

だけど、今日気づけたことは、

「結局何が言いたいのかはわからない」

っていうことでいいんだっていうことです。

 

 

 

この世に正解なんて落ちてない

正解を作るのは自分しかいないし、

その正解に気づけることがすごいことなんだ。

ということを思うようになりました。

 

 

 

正解なんて存在しない、あるとしたらFACTだけ、

つまり事実だけなんですよね。

 

 

 

テストで90点が取れたという事実、

スマホがつかないという事実、

LINEの通知が来たという事実、

テレビから音が出ているという事実、

エアコンの電源が入っているという事実、

生きているという事実、

 

 

 

結局見えるものは事実だけ

大事なのは解釈がどうなるかなんですよねやっぱり

 

 

 

事実は変えられないし、

変えるように行動することができるが人間の特権なんですよね

 

 

 

もっと正確にいうと、

生きてる人間の特権ということです。

 

 

 

自分は事実さえも変えようとしてきました。

生きてるっていうことさえも

変えようとしたこともあります。

 

 

 

生きている意味がわからなくなってしまったから、

理由を探して、答えを探して、さまよって、迷って

考えていたからです。

 

 

 

生きている理由が欲しかった。

自分のためでも人のためでもなんでもいい。

自分が楽しくったって、傷ついたって

どうなってもいい。

 

 

 

ただ、なんのために生きてるのかを

実感できるような、生きてるっていう実感が

できるようなそんな理由が欲しいって思ってました。

 

 

 

それがいつまでたっても見つからないから

自分には存在する意味すらないんじゃないのか。

とか、人生なんていらないとか、捨ててもいいんじゃ

ないのかとか、思うようになりました。

 

 

 

周りの人も全て捨てようかと思ったことさえあります。

 

 

 

 

一生懸命、事実を変えようとしていたんですね。

生きる目的が欲しかったから。

 

 

 

だけどそれさえ、本来は違うことだった。

 

人生の目的を探し続けることは別にしてもいい。

だけど、それは事実を捻じ曲げるのではなく

解釈を変えないときっとできないことなんだと思う

 

 

 

んーー

それさえも言い切っていいのかはわからないけども

そもそもそこにさえ答えなんてないんだと思うんだ。

 

 

 

きっとこの世で変えちゃいけない事実というものは

「生きる」ということだけなのではないのだろうか?

 

 

 

「生きる」ことは変えてはいけない

少なくとも自分は生きることは変えてはいけないと

思うことができるようになった。

 

 

 

なんか頭がごっちゃごちゃで

何を言っているのかわからないが、

 

 

 

生きることは変えてはいけないのだ。

 

 

 

だけど、生きることを捨てた人から

考えるきっかけをもらっていることだってあるし

少なくとも、自分は生きることを捨てた、

もしくは生きれなかった人間から、

考えることがあるのだから。

 

 

 

この世の出来事もそうだし、ものもそうだし、

起こることもそうだし、きっと偶然だけど、必然なのだろう。

 

 

 

いや、それさえもどっちでもいいのかもしれない。

 

 

 

意味がわからないな笑 描いててすごく思う。

 

 

 

だけど、それこそが自分にとってはいいことだし

意味わからないのが素敵なことなんだと今は思える。

 

 

 

例えば、自分が心に残っていることを

一つ紹介します。

 

 

 

自分の人生を考える大きなきっかけをくれた

女の子がいる。

 

 

 

その子は、2回会っただけだが、(正確に言うと3回だが)

はっきりくっきりと自分の人生に跡を残してくれた。

 

 

 

そのこと話していた時、トイレに行きたくなって

トイレにいって帰って来た時、すごく心が動いた。

 

 

 

空っぽだったコップに水が入っていたんだ。

 

 

 

たったそれだけのことだけども、

されどそれができる人間がどれほどこの世の中にいることだろう。

 

 

 

ものすごく嬉しかったのを今でも覚えている。

 

 

 

その子は集合時間に、30分その日遅れて来た。

ちなみにほとんど連絡をせずに。笑

 

 

 

探したなー笑

 

 

 

ああ…。結局約束したのにな…。

と思って、トボトボ、、、落ち込んで歩いてた…。

「はー…。」とため息交じりにカフェで待っていたら

 

 

 

「ついた」と連絡がきて

びっくりしたけど嬉しかったのを覚えてる笑

 

 

 

そんで最初いたカフェに戻って、

席について、その子が飲み物を買ってくるのを

待っていた。

 

 

 

そしたらびっくり。

 

 

 

帰って来たその子が手にチーズケーキを

持っているではないか。

 

しかも、「はい」と僕にくれたんだ。

 

 

 

「え、いいの?」と思うと、

「遅刻して来たから」って言ってたっけ。

 

 

 

わかってるじゃん笑

と言うかそこまで気を使えるのってすごいな

と感心しつつ、嬉しくてめちゃくちゃ笑顔になったなー

 

 

 

それが今でも忘れられない。

本当の「まごごろ」ってこう言うことなんだな

って言うのを強く感じた。

 

 

 

きっとこの子って優しい子なんだな

本当はキラキラしてて優しくて、いや、

優しい何かを感じることができる子なんだ

って当時も思ったよな。

 

 

 

だから、根っから本当は優しくて

素敵な人なんだと思っていた。

 

 

 

だけどその姿からは想像できないほど

自分は嫌われちゃったのかな笑

 

 

 

嫌われるのは辛いけど、

その子の心が優しさに包まれてるって

そう信じたかったのかもしれない。

 

 

 

嫌われた自分を認めたくなかったからさ。

 

 

 

だけど、この行動にも、解釈と気持ちは

一つと言い切れないんだなって言うのを

今日改めて実感した。

 

 

 

今日、たまたまツイッターで流れていた

2ちゃんねる?のサイトで描いて会った物語をみた。

 

 

 

中学生にもなる女の子。

虐待を受けていた女の子が、大学生の男の子に保護されて

本当の優しさとか愛とか心を開くこととか、

人を思う気持ちだとか、それを鮮明に描いている物語だ。

 

 

 

それに出て来たこと。

その子が初めて出会った日の夜、

寝る間際になった時、急に服を脱ぎ出した。

 

 

 

そして、一言衝撃の言葉を放った。

 

 

 

「今日は美味しいご馳走と

暖かい部屋をありがとうございました」 

 

 

 

仕組まれたようなこの言葉。

 

 

 

痛いことをされないために仕組まれた

この行動と言葉を発していたんだ。

 

 

 

これをみて、思った。

 

 

 

自分は決めつけてたんだって。

 

 

 

自分がきっと場面は違くても、

初めて会った子供が、同じように

感謝の言葉を口にしていたら、

 

「すごくいい子なんだ。心が綺麗な素晴らしい子だ。」

 

と思っていただろう。

 

 

 

だけれども、これが仕組まれていたこと、

つまりやらないとダメだから、やっていたこと

だとしたら…。

 

 

 

そこまで考えられてなかった自分が

どれほど小さくて惨めかって言うのを

改めて実感した。

 

 

 

自分が出会った女の子ももしかしたら、

過去から来ている行動だったのかもしれない。

 

 

 

だって、その子は愛情がわからないと言っていたから。

目は死んでる訳では少なくともなかった。

だけども過去にとらわれていたのは事実。

 

 

 

小さい頃から母親に捨てられ、

父親には暴力を振るわれ、

生きてることさえも否定されてたんだ。

 

 

 

それを知っていて、

こんな心あったまるような行動を

してくれたもんだから、本心は優しい子なんだなって

思ってしまったんだよな。

 

 

 

だけど、気を使わなきゃいけなかった人生だったから、

人から好かれるすべを持っていただけなのかもしれない。

 

 

 

心のそこからの思い出そのすべを使っていたのかは

実際のところわからない。

 

 

 

もしかしたら違ったのかもしれない。

 

 

 

今はもう確かめようのないことだが、

このことからもわかることは、

人なんてわかることはできないし

答えはどれだかわからない。

 

 

 

小学校からずっと答えを答え続けて

正解と不正解をつけられて来た僕たちには

答えがない問題を理解するには時間がかかるかもしれない。

 

 

 

だけど、これが事実なんだと少なくとも僕は思う。

 

 

 

きっと全ての物事は「わからない」が正解だろう。

そもそも正解も不正解もないんだ。

 

 

 

だから余計正解を求めたくなるし、

不安にもなる。わからなくもなる。

 

 

 

だけどきっとそれでいいんだ。

 

 

 

きっとそこから生きる意味が見つかるのだから。

 

 

 

 

生きる意味というか、自分はどう生きたいのか

というところが見つかるんだと思う。

 

 

 

迷い続けて初めて、少しずつ自分を知れるように

なって言って、見つかるものなのかもしれない。

 

 

 

ちなみに、今日自分の生きる意味が

改めて見つかった気がする。

 

 

 

自分がどう生きたいのかだ。

 

 

 

それは「考え続けられる人生を送りたい」

ということだ。

 

 

 

なんか自分から出て来たものだからすごく納得できるし

しっくり来ている。

 

 

 

自分の周りには、好きなことをして生きて生きたい

とか、自由に生きて生きたいとか、

遊んで生きて生きたいという人が多い。

 

 

 

それにその反対で、死ねないから生きている

と言っている人もいたりした。

 

 

 

自分は死ねないから生きてるんだっていう考えに

なったこともあるし、楽しいから、自由という

言葉を使ってみたこともある。

 

 

 

だけどすぐなんかなーと思う時がやって来ていた。

 

 

 

他人の言葉を借りていたからだ。

 

 

 

で、今日見つかった考え続ける人生

っていうのはちょっと違う。

 

 

 

これは自分の中から見つかった答えだ。

 

 

 

最近悩むことがまた多くなった。

今までの人生を考えてきた時に、うまくいくことよりも

悩むこととか結果が出ないこととかの方が

比較的に多かったんだ。

 

 

 

だからこそこう思うのかもしれないが、

今の自分にはこの言葉がしっくりしている

 

 

 

「考え続けられる人生を送りたい」

考えるのがとにかく好きみたいだ自分は笑

 

 

 

最近、教師とか児童養護施設とか

いろんなものを調べたり、見たりしているが、

また目指そうかなと思っていた。

 

 

 

だけど自動養護教員になるためには、

やっぱり資格がいるんだってことを知って

なんか目指したいのかなー

ってまた思ってしまった。

 

 

 

虐待とかと全く縁のなかった自分が

なぜそこに関心を持つようになったかっていうと、

今年の1月にある女の子と出会ったから。

 

 

 

そこから本格的に盛大に迷い始めた。

 

 

 

だけど、だからこそ

自分の生きたい人生が見つかったんだと思う。

 

 

 

考えて考えて考えて考えて悩んで悩んで悩んで悩んで

苦しくてストレス溜まって、死にたくもなって

辛くて逃げ出したくて不安で、

 

だけど逃げ出すのも不安で、怖くて、

正解を求めて、どうすればいいのかすら

わからなくなって。

ごっちゃごちゃになった。

 

 

 

で、今日たどり着いた答え。

それは「自分って考えることが好きなんだな笑」

っていうこと。

 

 

 

きっと考えることが好きだから

考え続けてるんだなって気づけた笑

 

 

 

だって教師になって幸せな人生を歩んでる想像しても

嫌じゃなかったけど、なんか死んだ時に、「あー幸せだな」

って言って死んで言ってる気がした。

 

 

 

そこにはエネルギーはほとんどなく、

生きてたことに幸せを感じながら。

 

 

 

だけどそんな簡単には行かないし、

どうなるかなんてわからない。

先なんてわからないじゃないか。

どうすればいいんだ…。

 

 

 

脳内で勝手に会議が始まっているんだ。

 

 

 

そこで、脳に住んでるやつは、

きっと会議を開くのが、そして勝手に考え続ける

ことがすきなんだなっていう結論に辿りついたんだ笑

 

 

 

遊ぶことは楽しいが、別になくてもいい。

遊び中にすら考えちゃうからさ笑

 

 

 

別に自由じゃなくてもいい、

だって教師でも養護教論でも、働くことは

変わらないのだから。

 

 

 

養護教論にはなりたいと思う。

だけど、自分をわざわざ傷つけることにもなると思うし、

なんでわざわざそれをするんだ…。

そんなことまで考えていた。

 

 

 

自分ってどんな人間か。

それもわかるようになってそれも

わかるようになってきた。

 

 

 

嫉妬深かったり、メンタル弱かったり、妬みがあったり

実はこどもがあまり好きじゃない時もあったり、

恥ずかしがり屋だったり、寂しがりやであったり、

 

 

 

ごくごく一部でもこれだけわかったり

あとはもう書き出したら止まらないくらい、

自分のことをしれた。

 

 

 

自分=◯◯っていう正解は見つからないけど、

きっとこうやって「考える」ということが

好きなんじゃないかって今では思う。

 

 

 

考え続ける人生を送れるんだったらきっと

よかったなって思えるような気がしたから

それを書き記して起きたかった。

 

 

 

そしてあとは感謝だ。

 

 

 

自分に考えるきっかけを与えてくれる

今関わっている人や仕事に本当に感謝しなくてはいけない

 

 

 

そして出会ってくれる全ての人がいることが

当たり前じゃなくて素晴らしく恵まれたことなんだって

改めて気づいて感謝を忘れずに。

 

 

 

幸せ者なんだってそう思えたから、

だからこそ当たり前にせず、当たり前だと思ったら

失ってみた自分を想像してみて、

自分を観察すること。

 

 

 

そうすれば本当に進むべき道が

きっとどこかで見つかるはず。

 

 

 

見つからなくても大丈夫。

その姿をみて影響を受ける人はどこかにいるから。

 

 

 

だから死にたいのなら死ねばいいさ。

生きたいのなら生きればいい。たびに出たいのならし、

仕事をしたいからする。

 

 

 

それでいいじゃないか。

 

 

 

人の声でも目線でもない。

自分が選んだ選択ならそれでいいじゃないか。

 

 

 

だって死んだとしても、死んだっていうデータになり、

それが誰かの記憶に残り続け、何かきっかけを

当たえることができるようになる。

 

 

 

人間って、他人って、生きてるとか死んでるとか

そんなん関係なしに、「いる」っていうこと自体が

こんなにも素敵なことなんだなって今日も感謝をして

寝ようと思います。

 

 

 

唯一自分が望みたい世界があるとしたら、

虐待がなくなるといいな。

ビクビク怯えていい子になるのではなくて、

 

 

 

心から笑えるような人で、

この世が埋まってくれるといいな

 

 

 

都会でよくありがちな、

歩いてて肩がぶつかっても何も言わないという光景。

誰かが困ってても助けようとしないという光景。

 

 

 

あれが少しでもあたたかいものに変わっていったらな

ということを願って。人と人とが結ばれる、そして愛が

育まれる結婚式でいうと、アーメン。願うということ。

 

 

 

それを少しでも願って今日も考え続ける毎日を

過ごしていこうと思います。

 

 

 

今、起こっているもの、自分が関われている、

関わってくださっている、無意識にでも繋がることができた

全てもものに、全ての人に感謝して。

 

 

 

悩めることも傷つくことも全ては経験、

どんなに何かを言われたって嫌われたって

その考えるきっかけをくれた出会いに感謝して。

 

 

 

おやすみなさい。

 

 

 

>小説

http://ssin.blog.fc2.com/blog-entry-776.html?sp

幸せになるための順番ー絶対的法則ー自分の可能性を広げ、満たし、満たされ、今を生きるためにー

f:id:yusuke-1014-04:20170619160050j:plain

 

 

なたの人生には「人」は必要ないですか?

 

 

この問いに「Yes」と答えられる人が

この世界には何人いることでしょうか?

 

 

もし答えられる人がいるとすれば、

その人はすごい人だと思います。

 

 

だって人との関わりがなかったら

自給自足で生きていくしかないのだから。

 

 

俗にいう農家さんとかはこれに当てはまるんですね!

 

 

食べているものは全部自分で作っている。

しかしじゃあ家は?衣料品は?風邪を引いた時は?

 

 

自分で作ったもの以外の何かを

自分が持っているのだとしたら、

結局人とのつながりの中で生きているのだ。

 

 

人は人がいなくては生きることはできないのは事実。

 

 

だからこそ見知らぬ人だとしても

どこかしらで関わっているのかもしれない。

 

 

その人が作ったものを使っているのだから。

 

 

たとえその人が見えなかったとしても、

きちんと感謝をすることは大事になってくるのです。

 

 

あったこともない人に感謝をするのは

難しいことだと思います。

 

 

無理にしろとは言いません。

 

 

ただ、だとしたらあなたの周りにいる人、

話したことがある人、たまに会う人、

たまに連絡する人、たまに遊ぶ人、

一緒にご飯をいく人、一緒に時間を共有する人、

 

 

その人たちと一緒にいれるっていうことを

感謝することは大事なのではないだろうか。

 

 

一緒にいれることが当たり前じゃない。

当たり前の基準が高くなってきた

この世の中だからこそ、

 

 

もう一度当たり前は当たり前ではないことに

気づくことが大事になってくるのではないだろうか?

 

 

一瞬だけとか、いずれいなくなる人だからって

人を区別するのはいいこと。

 

 

だってそれはきちんと将来のことまで

見れているから考えられることなのだから。

 

 

だけどそう思ったなら動けばいい。

一生いれる人を探して、

一生生きれる状態に自分がなれるように。

 

 

感謝をして新しいもっと求めているものへ、

近づいていけばいい。

 

 

ここで大事になってくることは、

「求める」とはどういうことかを知ること。

 

 

いくら求めたとしても自分勝手では

帰ってくることは決してない。

 

 

それではいつになっても足りないものを求め続けて、

一生何か足りない感覚を持ったまま

生きることになってしまう。

 

 

そんな人生に違和感を覚えているからこそ

今何かに疑問を持っているのではないだろうか。

 

 

何かを求める時には絶対的な法則があることを

あなたはご存知だろうか。

 

 

最近よく言われている「引き寄せの法則」。

 

 

これにも同じことが言えるのだが、

引きようせの法則っていうのも、

引き寄せたいって思って誰かに近づこうとか

動こうとするだけでは手に入れることはできないんだ。

 

 

本当に引き寄せたいもの、

今自分が本当に求めているものを得るために

新しい出会いを探すことは大事になってくる。

 

 

だが、それだけでもいけないんだ。

ただの出会いからはただの人間関係しか生まれない。

 

 

本当に深く生きれるような

人間関係、信頼、信用があって、

 

 

その上で生きていける人間関係を

作るためにはあることが大事になってくるのだ。

 

 

それは「まず自分が与えること」

そして「相手の見返りを求めるのではなく与え続けること」

 

 

それができるようになって初めて

幸せというものは降ってくるのだ。

 

 

つまり自分が与え続けることによって、

相手を満たすことによって

初めてそのあとに相手が満たしてくれるという

状態を作れることができる。

 

 

物事はシンプルなのだ。

 

 

満たせば満たされることができる。

ただ、満たされることを考えて

相手を満たすのではなく、

 

 

本当に相手に幸せになってほしいという思いから

無償の愛情を伝えていくこと。

無償の満たしを与えてあげること。

 

 

それこそが良い人生を送るコツになってくるのだ。

 

 

ある人がこんな話をしていた。

 

 

陸上界で日本一になったことも

あるようなすごい人だ。

 

 

しかしその人は今は陸上から離れ、

たくさんの失敗や経験をしながら

生きたい人生を生きている。

 

 

その人が陸上を辞めた時に、

ずっとお世話になっていた監督に言われたことがある。

 

 

「俺はお前のためにこれまでやってきた。

お前にずっと尽くしてきたのにお前は俺を裏切るのか」

 

 

確かに監督がずっと面倒を見てくれて

人生を考えてくれて、

その上でずっと付き合ってきたのに、

 

 

尽くしてきた相手からお前とは

もう生きたくない。

 

 

と言われたらそれはショックだろう。

 

 

計り知れないほどのショックがあったと思う。

 

 

だからこそ、悲しいという感情を認めてあげて

受け入れてあげることも大事だろう。

 

 

だが、この監督は「裏切られた」という

事実を認められず、受け入れられず、

自分が傷つくのを恐れて、ある言葉を放つようになった。

 

 

「〇〇は俺がいないとここまで来れんかった。

あいつは一人じゃ何もできない」

 

 

これこそプライドをズタズタにされた

報復みたいなものだろう。

 

 

傷ついたことを認めればいいものを。

こうやって人間関係は崩れていく。

 

 

この言葉を聞いてショックを受けた

裏切った側の選手はそれから

「お前のために」という言葉だ大っ嫌いになったという。

 

 

「お前のためには結局自分のためになのだ。」

と。

 

 

確かにそうだとは思う。それ自体は否定はできない。

 

 

だが、お前のためにという言葉は、

監督にとっては事実だったのだ。

 

 

何千時間その選手と向き合って、

考えて家族よりも大切にしてきたのかもしれない。

 

 

それは紛れもなく「お前のために」

という言葉にふさわしい行動だろう。

 

 

だがきっと、それだけ尽くしたからこそ

プライドが許さなかったのだろう。

 

 

裏切られたことがショックで悲しくて

どうしようもなかったのだろう。

 

 

だから自己防衛のために、怒りが出てくる。

 

 

そして人を傷つけてしまったのだ。

 

 

この問題は「お前のために」

という言葉でも思いでもない。

 

 

人が離れていったという事実と現実を

受け入れられなかったその人自身の器になるのだ。

 

 

そしてそんな器がちいさかった監督を

許してあげられなかった、

その選手の器の大きさ、優しさにあるのではないだろうか。

 

 

許すことができていたら、

きっと笑顔で別れて入れたのかもしれないな。

 

 

だって与えるものは与えてきたのだから。

できることは全部やってきたのだろう。

 

 

だが、きっと選手は満たされることはなかったのだ。

何かが足りなかった。それはしょうがない。

 

 

完璧な人なんていないのだから。

だったら足りなかったものを

認めてつける努力をすればいいじゃないのか。

 

 

完璧じゃないからこそ可能性があるんだ。

 

 

人は可能性で溢れている。

可能性の塊でしかないんだ。

 

 

だから諦めなければきっと

その可能性には芽がでるさ。

 

 

今の場所が嫌なら変えればいい。

 

 

可能性がない場所なんていくらでもあるから。

 

 

客観的に見たらわかるはずさ。

 

 

だけど可能性で溢れた場所だっていくらでもある。

変わりたかったら変えればいいんだ。

 

 

その上で、人を満たし続けること。

 

 

自分ではなくまずは人を。

 

自分が満たされていなくてもいい。

 

それよりも人に。

 

誰かのために。

 

きっとそう動いていけば

満たしてくれる人が出てくるから。

 

 

満たせなくても

満たそうとしてくれる人が出てくるから。

 

 

その人の実力がどうであれ、

その人の能力がどうであれ、

大事なのは気持ち。

 

 

それを大事にしていけば、

きっと気持ちで溢れた幸せなものを

作ることができる。

 

 

気持ちを大事にしよう。

 

 

そして気持ちを求めるのではなく、

与え続けること。

 

 

そして気持ちを大事にすること。

足りないなら足りないって素直に伝えよう。

 

 

足りないことに気がつくチャンスにもなるから。

 

 

そうして初めて幸せに近づいていくのだ。

過去なんか関係ない。今を変えればいいのだから。

 

 

大事なのは今。

 

過去に囚われててもいい。

 

だけど今を諦めないこと。

 

変われるのは今しかない。

 

今を生きること。動こう。一歩ずつでも。

 

 

画像引用元:https://www.morganmckinley.co.jp/ja/article/%E4%BB%95%E4%BA%8B%E3%81%A7%E7%99%BA%E6%8F%AE%E3%81%99%E3%82%8B%E3%80%8C%E5%B9%B8%E3%81%9B%E3%81%AE%E3%81%A1%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%8D

最終閲覧日:2017/6/19/16:02

 

 

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隣の芝が青く見えるー(環境選びで重要なポイントとは)ー昨日の自分より大きく成長するコツ

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昨日の自分よりも大きく成長していくコツとは。
 
 
もっと行動しなくちゃ。って思う人って案外多いんだなっていうことに最近驚いたりしてます。
 
 
まあしょうがないことなのかもしれないですが、自分の一度きりの人生をどう進められるかって結局今の自分の行動でしかないんだと思います。
 
 
隣の芝が青く見えることはよくあることだと思う。だけど隣の芝が青く見えてるっていうこと自体がまだまだそこの可能性を活かしきれていないっていうことと同じだろうし、そもそもその環境にいて何か足りないものを感じるからこそ、隣の芝が青く見えるっていうのが事実だろう。
 
 
自分が今いる環境と自分はどれだけあっているものなのか。いくらいいものをやっている環境だとしても、そこの環境と自分が目指すものや自分自身がずれていては、その時間はきっと少しの成長しか得られないものになってしまう。
 
 
ポケモンとかでいうと、強いポケモンを倒したはずなのに、経験値すっくな。。っていう感覚に似ているのだろう。そもそも今強そうって思っている目の前にいるポケモンは全然強いものではなく、そもそも経験値がほとんどつかないものなのかもしれない。
 
 
それはしょうがないんだ。だって最初何もわからない状態でわかるものなんて何もないのだから。
 
 
だから何が正解で何が不正解かなんて答えはない。
 
 
だからこそ、何か環境を見る時に、一番見るべきところはどこか。
 
 
それは上にいる人と中間層、下にいる人の「意識の差」だ。
 
 
例えば、ものすごく大企業でいい会社と世間一般には言われている会社があるとする。
 
 
きっとトップはものすごく心が広かったり、想いを持って仕事をしているはず。
 
 
だけど、実際にそこの支部のトップは?部長は?一つ前を進んでいる先輩は?
 
 
結局一番身近な先輩の意見や行動にしか届かないっていうのが、環境に染まるということ。
 
 
その先輩を超えて行くっていうことはなかなか難しいんだ。
 
 
もともとスキルとかセンスとか才能があったならそれは別物。
 
 
だけどそういったものが一切ない時に、何を基準で環境を選ぶべきかっていうとやっぱりそこには人が大きく関わってくる。
 
 
そしてその人たちが目指しているもの。きっと優秀なところほど、レベルの高いところほど、一人一人が違ったものを追っていて、目指しているものを個々人できちんと持っているだろう。
 
 
人間全く同じ人はいない以上は、同じものをやっていて同じものを目指している人たちはごく稀でしかない。
 
 
だからこそ一つ上の先輩がどういう意識でやっていて、どういう目的を持ってやっているのか。
 
 
そこを見れば一目瞭然にそこに自分が属した未来が見えてくることだろう。
 
 
確かに努力をすれば、一定のレベルまではいけるのかもしれない。だけど突き抜けられるどうかにはセンスも想いも大きく関わってくる。
 
 
だからこそ、きちんと見極めることが大切になってくる。
 
 
きちんと自分の中で物差しをもち、挑戦したいなって思ったら思いっきり飛び込んで見たらいい。
 
 
そこで飛び込めるかどうか、進めるかどうかは、きっと自分を信じられるかどうかによって変わってくる。
 
 
要するに自分を愛せているかどうかというところだ。
 
 
自分は自分を愛するということが苦手なことは多い。
 
 
だけど、それでは大事な時に、結局大事な決断ができない状況に陥ってしまうだろう。
 
 
だけど、そんな自分もきちんと理解した上だったら、あとはどう進めばいいかはおのずと見えてくるものだと自分は思う。
 
 
何かに迷っている時、そして何が不安かが明確に見えているということはきっと目の前にあるものは陸上でいうハードルでしかない。
 
 
ひょいと乗り越えさえすれば、まっすぐに道は続いているのだ。
 
 
ただ、もしその壁が漠然としたものとして感じるのだとしたら、それは壁ではない。きっとまだハードルに届くくらいまで走れていないのだ。
 
 
まだ壁を超えるだけのスタートラインにすら立てていないのだろう。
 
 
もし今壁にぶつかっているのならばすごいことだと認めてあげよう。だってちゃんと動けたのだから。
 
 
生きていく中で一番怖いのはなんとなくすごくこと。
 
 
迷いながらでもいいからきちんと行動まですることで、新しいものは何かしら見えてくる。自分自身も必要なものも、進むべき道も、使うべき環境も。
 
 
そうして初めて見えてくるものなんだ。
 
 
だからこそ、一回どんな自分でも認めてあげよう。どんなに惨めてできていない自分だったとしても、そんな自分を認めてあげよう。そして受け入れて許して、「ま、自分だからな」って笑って愛して上げられる心を持とう。
 
 
そうすればきっと、次の行動がおのずと見えてくるはず。何も見えないのならば、見えるまで新しい行動をして見ればいい。
 
 
あとは失敗をしても諦めずに挑戦すること。学習と、逃げることを覚えるのは違う。
 
 
きちんと学んで次に生かすこと。あとはわからないことを明確にしていけばきっと道は見えてくる。
 
 
あとは見えた道を進むだけだ。ハードルを一つづつ超えて、ゴールを目指して進んでいるだけ。ハードルを倒してしまっても、またすぐ次のハードルに挑戦して超えていけばいい。
 
 
使えるものを全て使って、最後は一人で乗り越える。それができればきっと今は見えていない新しい世界が見えてくることだろう。あとはそんな可能性を感じた自分を信じてみること。そして引き際もきちんと考えること。時間は有限だから。だからこそ今をもっとよりよく進んでいこう。
 
 
最終閲覧日:2017/6/8/11:53

自由に生きることの本当の意味

f:id:yusuke-1014-04:20170607181549j:plain

 

 

 

ー自分の人生を決める前に、もう一度あなたの価値に気がつこうー
 
 
最近、いろんなニュースを見るが、その中ですごく気になるものがある。それは誰かを否定するものだ。
 
 
例えば、テニスで有名な錦織がテニスラケットを試合中に投げてぶっ壊した。それをみた人が、これが日本を代表する選手のやることじゃない。と言う。
 
 
本田圭佑が、日本の自殺問題に対して、他人のせいにするのではなくて、他人の成功に囚われるのではなくて、自分なりの道に進めばいいのではないか。と言うような発言をしたことに対して、それは成功者が言う、自己責任論だ。と言う人がいる。
 
 
いろんな考えの人がいる中で、賛否両論いろんな発言が飛び交っているのが今のこの世の中である。
 
 
ぶっちゃけ自分からしたらどうでもいいのが事実だ。
 
 
だって、それって個人の自由じゃない?
 
 
ストレス発散でものに当たる人がいてもいいんじゃないかな。
だって人に当たる人もいるし、ものを買う人もいるし、一人になる人もいるし、みんなストレス発散には何かしらするでしょう。
 
 
その時に取ろうと思った行動がそれであっただけで、他の人がとやかく言う問題ではないと自分は思う。
 
 
言ったところで何かが変わることではないし、嫌だったらみなければいい話だと思う。だけどそこに感情が動かされたから発言をしてしまうのが人間なんだ。
 
 
人間の原動力は「感情」だ。
 
 
だからこそ人間はこう反応してしまうんだ。
 
 
だけどこの人たちの影響力は自分は計り知れないと思うのも事実だ。
 
 
だって、日本の自殺問題に対してツイートを一回するだけで、届けたい人に思いを届けることができる。
 
 
しかもものすごく大きな範囲で。
 
 
自分が思ったことを、思った問題を、どうしても感情が動いてしまうような問題に対して、何かをしようと、想いをのせたツイートをするだけで、実際どれだけの人が救われたのだろうか。
 
 
人間、誰かのことを否定したくなる生き物だから、何かをすると言うことは、反対を食らうことなんか当然なんだ。
 
 
だからっていつまでもビビってちゃ、結局伝えたい人にまで届かなくなってしまう。
 
 
想いがあるなら届けよう。感情が動いたなら届けよう。
 
 
何かを感じるのならば、それを誰かのせいにするのではなくて、自分から動いてみたらいい。
 
 
届けたい誰かのために、そして、それに心を動かされてしまった自分のために。
 
 
なによりいけないことは、心が動いたのにも関わらず、自分には無理だと、できないと決めつけ、挑戦することをやめることだ。
 
 
挑戦するのをやめた瞬間、その人の可能性はきっとそこで止まってしまう。
 
 
何かを感じたなら動いてみたらいい。どんな形でもいいから動いてみたらいい。
 
 
結局自分に嘘をついて、偽っているからこそ、誰かのせいにして、過去の自分のせいにして、今の可能性に目を向けないからこそあと一歩動けないのだろう。
 
 
だって、今はどんな形だとしても、世の中に価値を与えてる人がいる限り、自分は誰かに支えられて生きていることになる。そしてお金を持っていると言うことは何か価値を生み出していることになるんだ。
 
 
どんなバイトだとしてもそれは誰かのために、やくに立っている

 
 
誰かに価値を与えているのだ。それが感謝と言う形で帰ってくるかなんか誰にもわからない。ただ、そこにある事実として、生きている、お金を持っていると言うこと自体が、その人には価値があるんだって言う証明なんじゃないだろうか。
 
 
例えバイトをしていなくとも、お金を親からもらっているのだとしたら、その人には親からしたら生きていて欲しいだけの価値があるのだ。
 
 
人は支え合って生きているのは事実。
 
 
だからこそもっと広く許しあって生きていく必要があるのではないだろうか。
 
 
左右の人と同調しあって、うなずき合って、合わせあって生きるのではなく、自分一人でいることにもっと価値を感じて。
 
 
就活に不安な人は数多くいると思うし、未来に不安を抱えている人はたくさんいることだろう。
 
 
それはしょうがないことだ。
 
 
もし今の場所に不満があるならそこから逃げてもいいんじゃないのか。
 
 
居続ける必要なんて決してないと思う。
 
 
就職しないと生きていけない、今はバイトで生きていけたとしても、将来きっと困るだろう。そう思うことは悪いことじゃない。だって危機感をちゃんと感じれるのだから。
 
 
だけどそこで自分らしさを失って、自分の価値を捨てるようなことをするんだったら、価値の見せ方を覚えたほうがいいのではないだろうか。
 
 
人は人に価値を与える形がわからないからこそ、どこかに雇われようとする。そうしなければ生きていけないから。
 
 
だけどどうやったら価値を与えることができるのかをしっかりと自分のスキルとしてつけることができるならば、きっとあなたの価値は今以上にもっと大きなものになるだろう。
 
 
そしてあなたが自由にあなたらしくいきることに、価値を感じて対価を払ってくれる人が出てくるんだ。
 
 
今は世界中の人と繋がれる時代。と言うことは日本中の人と繋がることだって、難しいことではない。
 
 
だったら、あなたを求めている人にあなたの価値を届けてあげたらいいのではないのか?
 
 
届ける方法がわからないならば学べばいい。聞けばいい。
 
 
これを読んでくれているあなたに、僕の想いが届いているように、この世の中には自分の思い、価値を人に伝える方法はいくらでもある。わからなかったら聞けばいい。
 
 
そうやって少しづつでも価値を伝えられるように変わっていけばいい。動いていけばいい。
 
 
そうすればきっとあなたのうちなる思いが、それを求めている誰かに届くのだから。そしてそれを受け取った人の心に突き刺さり、あなたの想いで人が変わる、そんな価値を与えられる人間になることができるだろう。
 
 
自分で価値を作り出し、それを求めている人に届けて見たからこそ初めてわかることだったのだと自分は思う。自分で何もないところから売り上げをあげられる人間になれたからこそわかることだと思う。自分で価値を届けられる人間になれたからこそわかることなんだと思う。まだまだ未熟だが、そこだけは確実にわかる。
 
 
今がどんなに辛くても、今を諦めてはいけない。だってもっとあなたには可能性が溢れているのだから。その可能性を忘れてはいけない。
 
 
自分自身に秘められた可能性を信じて、逃げずに前に進み続ける。時には進路変更が必要になる時もあるだろう。いっぱいいっぱいになることもあるだろう。怖くて一歩踏み出せない時もあるだろう。
 
 
その時は誰かを信じて、自分を信じて前に進んでみること。その先にはきっと何か可能性が待っているんだと信じて進み続けること。
 
 
今を大切に。時間は戻ってこないのだから。
 
 
生きたいように生きることはできる。その可能性を今日も自分を信じて、生きていこうじゃないか。
 
 
感情のエネルギーを大事にして。
 
 
感情のために動いて見ればいいじゃないか。
 
 
自分のために、そしてあなたが放つ価値を感じてくれる人のために。まだ出会っていない、あなたの価値を求めている人のために。
 
 
今日も自分を信じて進み続けよう。

 

 

画像引用元:http://www.kudn-sc50.blog/entry/2017/05/09/063000

最終閲覧日:2017/6/7/18:17

価値が無くなる時は逃げた時。自分の本当の価値に気がつくために

f:id:yusuke-1014-04:20170607180904j:plain

 

 

 

どんな時も本質に辿り着かないと結局はズレた解釈になることが多い
 
 
何かを考える時や、何かに取り組む時、何かの失敗を反省する時にも共通して言えること。
 
 
それは本質まで辿り着かなければ、きっと根本的な解決にはならないこと。そして一番重要な行動まで変わらないことだ。
 
 
1月にある子に出会ってから、いろんなことを考えるようになった。
 
 
例えば事業をやっていて、もっと可能性があるのにそれを引き出せなかったこと。少し遅れてしまっただけで、人の人生がもうちょっと良くなったかもしれないのに、自分の力はどうしようもないこと。
 
 
最近そんなことが良くある。
 
 
自分は特に落ちるときは落ちる。考える、そして気づけるという点ではいいのかもしれないが、実際に気づくまでの時間がかなりかかるのが問題点でもある。
 
 
「遅かった」
 
 
その一言に尽きる。
 
 
それ以上でもそれ以下でもない。
 
 
この世で起きる全ての現象は、常に自分を成長させるために起きているもの。
 
 
だから挑戦しても逃げてもたとえ消え去ったとしても、それはなんでもいい。
 
 
そこから何かを学んで、何かを感じ取ればいいのだから。
 
 
人との出会いはきっと運命なのだろう。
 
 
自分には、いつも大事なことを気づかせてくる人がいる。
 
 
自分のやりたいことをくれた人でもあるし、自分にとってはものすごくきっかけになった人。その時の自分のレベルでは何もできなかったという事実だけが残でもある。
 
 
その人にあることを言われた。
 
 
それは「同情」しないこと。
 
 
人間は一人では生きれないのはわかりきっていること。
 
 
だが、「生きる」という動作自体は自分でしかできないのだ。
 
 
つまり、人は一人でしか生きることができない。
 
 
だからこそ、人の気持ちをわかろうとすることはできるが、人の気持ちをわかることはできない。理解することは到底できやしない。痛みも気持ちも一切わかるはずがないんだ。
 
 
人はみんな違う生き物。
 
 
だからこそ、一人しかいない特別な存在でもある。
 
 
別にいてもいなくても変わらないかもしれないし、その一人一人に特別な生きる意味があるかどうかなんかわかりようがない。
 
 
だけど、だからこそ面白いんだと思う。
 
 
だって、どんなに皮肉な人でも鬼畜な人でも残虐な人でも残酷な人でもずるい人でも人を騙す人でも
 
 
その人に出会えて、よかったって、結果はどうであれ、また一つ解釈が増えたって思えれば、どんな人でも生きてる意味はあったのだと思う。
 
 
それが誰かの何かに繋がって、その何かがきっと誰かに届くのだから。
 
 
例えば、過去に虐待を受けていた人がいたとする。その人のご両親はさぞかし愛のない冷たい人なのだろう。そう解釈することもできるし、そういう子は特に愛情っていうものがわからないから、感情がわからない、生きてる意味がわからないって言うことが多い。自分には価値がないって言う。死にたいけど死ねないって。
 
 
きっとその子にとってはそれか消えない痛みで、きっとそれは自分にはわかり得ないような深い痛みなのだろう。
 
 
ただ、その痛みがなんであれ、その子に出会い、その問題に触れ、その子の価値観に触れ、自分なりに自分やその子と向き合って、その問題に向き合って、答えは出なくても考えたり、進むきっかけになったならそれでいいんじゃないのか。
 
 
その子には少なくとも、自分にとっては価値のある人間に見えた。とても素敵に見えた。だって自分に何か価値をくれた人だから。それがどんな形でも。そしたらそんな価値を生める人を産んでくれるきっかけになったご両親はきっと価値のある人間だったのだろう。
 
 
例え報われなかったとしても、その価値にはいつか気がつく必要がある気がする。
 
 
人が生まれるという価値だし、誰かと関わり、一人でもあなたに出会えてよかったと思ってくれる人がいることに。
 
 
それがどんな形だとしても。どんな捉え方だとしても。
 
 
何かを学び、考えるきっかけになっただけでも無価値ではなく価値がある人間だったと言うこと。
 
 
その価値を素直み認めてあげよう。
 
 
よかったじゃん
 
 
ただ、そうは言えないこともある。
 
 
それは逃げ続けること。
 
 
逃げることから何かを学んで、逃げちゃいけない時もあるんだな。
 
 
と学ぶならまだいい。
 
 
だが、逃げたあげくに、その逃げた自分を正当化しようとする人がいる。
 
 
それは違うんじゃないのか?
 
 
いつまで子供な考えをしているんだ。
 
 
逃げたことは自分で認めてあげればいい。自分は怖くて逃げたんだって。捉え方が変われば世界は変わるんだから。
 
 
もっとより良い人間になれる。
 
 
大事なのは捉え方を広げること。
広い範囲で物事を見れるようになることだ。
 
 
そして逃げずに立ち向かうこと。
 
 
立ち向かっていけばきっといつかその向こうに何か見えるはずだから。今取り組むべきことを取り組んでいけばいい。
 
 
それは目の前のことではないかもしれない。
 
 
だったら探せばいい。
 
 
何がいいのか悪いのか、どんな自分になりたいのかどんな自分で生きればいいのか
 
 
そこに答えがないからこそ、どんな時も自分なりの本質にたどり着く必要がある。
 
 
そこに気がつけたなら、あとは恐れず落ち込まずまずは目の前のことを取り組んでいくだけでいい。
 
 
淡々と、一つづつ前に進んでいけばいい。
 
 
変わるのは少しづつでいいし、成長も少しづつでもいい。
 
 
ちゃんと本質に戻ることさえできれば、きっとどんな時もやりがいに満ち溢れた、素敵な人生を送ることができるから。
 
 
何もなくなっても生きていけるような素敵な捉え方を手に入れることができるから。そこからが本当の勝負だ。自分の人生を生きるスタートに立つことができるのだから。
 
 
なんでもいいからまずは逃げないことだ。面と向かってそれはなんでなのか考えろ。そしてわからないなら聞けばいい。疑問があるなら正々堂々真っ正面からぶつかってくればいい。
 
 
決めつけるな。人の心なんて読むことはできないのだから。
 
 
自分は自分にしかわからない。
だから、どんな時も本質を忘れずそして追求することをやめず、自分のために、価値ある人間としてこれからも生きていくために、毎日毎日学びをやめず、少しづつでも心を大きく、そして成長をしていくこと。
 
 
行動しよう。自分のために。