価値が無くなる時は逃げた時。自分の本当の価値に気がつくために
どんな時も本質に辿り着かないと結局はズレた解釈になることが多い
何かを考える時や、何かに取り組む時、何かの失敗を反省する時にも共通して言えること。
それは本質まで辿り着かなければ、きっと根本的な解決にはならないこと。そして一番重要な行動まで変わらないことだ。
1月にある子に出会ってから、いろんなことを考えるようになった。
例えば事業をやっていて、もっと可能性があるのにそれを引き出せなかったこと。少し遅れてしまっただけで、人の人生がもうちょっと良くなったかもしれないのに、自分の力はどうしようもないこと。
最近そんなことが良くある。
自分は特に落ちるときは落ちる。考える、そして気づけるという点ではいいのかもしれないが、実際に気づくまでの時間がかなりかかるのが問題点でもある。
「遅かった」
その一言に尽きる。
それ以上でもそれ以下でもない。
この世で起きる全ての現象は、常に自分を成長させるために起きているもの。
だから挑戦しても逃げてもたとえ消え去ったとしても、それはなんでもいい。
そこから何かを学んで、何かを感じ取ればいいのだから。
人との出会いはきっと運命なのだろう。
自分には、いつも大事なことを気づかせてくる人がいる。
自分のやりたいことをくれた人でもあるし、自分にとってはものすごくきっかけになった人。その時の自分のレベルでは何もできなかったという事実だけが残でもある。
その人にあることを言われた。
それは「同情」しないこと。
人間は一人では生きれないのはわかりきっていること。
だが、「生きる」という動作自体は自分でしかできないのだ。
つまり、人は一人でしか生きることができない。
だからこそ、人の気持ちをわかろうとすることはできるが、人の気持ちをわかることはできない。理解することは到底できやしない。痛みも気持ちも一切わかるはずがないんだ。
人はみんな違う生き物。
だからこそ、一人しかいない特別な存在でもある。
別にいてもいなくても変わらないかもしれないし、その一人一人に特別な生きる意味があるかどうかなんかわかりようがない。
だけど、だからこそ面白いんだと思う。
だって、どんなに皮肉な人でも鬼畜な人でも残虐な人でも残酷な人でもずるい人でも人を騙す人でも
その人に出会えて、よかったって、結果はどうであれ、また一つ解釈が増えたって思えれば、どんな人でも生きてる意味はあったのだと思う。
それが誰かの何かに繋がって、その何かがきっと誰かに届くのだから。
例えば、過去に虐待を受けていた人がいたとする。その人のご両親はさぞかし愛のない冷たい人なのだろう。そう解釈することもできるし、そういう子は特に愛情っていうものがわからないから、感情がわからない、生きてる意味がわからないって言うことが多い。自分には価値がないって言う。死にたいけど死ねないって。
きっとその子にとってはそれか消えない痛みで、きっとそれは自分にはわかり得ないような深い痛みなのだろう。
ただ、その痛みがなんであれ、その子に出会い、その問題に触れ、その子の価値観に触れ、自分なりに自分やその子と向き合って、その問題に向き合って、答えは出なくても考えたり、進むきっかけになったならそれでいいんじゃないのか。
その子には少なくとも、自分にとっては価値のある人間に見えた。とても素敵に見えた。だって自分に何か価値をくれた人だから。それがどんな形でも。そしたらそんな価値を生める人を産んでくれるきっかけになったご両親はきっと価値のある人間だったのだろう。
例え報われなかったとしても、その価値にはいつか気がつく必要がある気がする。
人が生まれるという価値だし、誰かと関わり、一人でもあなたに出会えてよかったと思ってくれる人がいることに。
それがどんな形だとしても。どんな捉え方だとしても。
何かを学び、考えるきっかけになっただけでも無価値ではなく価値がある人間だったと言うこと。
その価値を素直み認めてあげよう。
よかったじゃん
ただ、そうは言えないこともある。
それは逃げ続けること。
逃げることから何かを学んで、逃げちゃいけない時もあるんだな。
と学ぶならまだいい。
だが、逃げたあげくに、その逃げた自分を正当化しようとする人がいる。
それは違うんじゃないのか?
いつまで子供な考えをしているんだ。
逃げたことは自分で認めてあげればいい。自分は怖くて逃げたんだって。捉え方が変われば世界は変わるんだから。
もっとより良い人間になれる。
大事なのは捉え方を広げること。
広い範囲で物事を見れるようになることだ。
そして逃げずに立ち向かうこと。
立ち向かっていけばきっといつかその向こうに何か見えるはずだから。今取り組むべきことを取り組んでいけばいい。
それは目の前のことではないかもしれない。
だったら探せばいい。
何がいいのか悪いのか、どんな自分になりたいのかどんな自分で生きればいいのか
そこに答えがないからこそ、どんな時も自分なりの本質にたどり着く必要がある。
そこに気がつけたなら、あとは恐れず落ち込まずまずは目の前のことを取り組んでいくだけでいい。
淡々と、一つづつ前に進んでいけばいい。
変わるのは少しづつでいいし、成長も少しづつでもいい。
ちゃんと本質に戻ることさえできれば、きっとどんな時もやりがいに満ち溢れた、素敵な人生を送ることができるから。
何もなくなっても生きていけるような素敵な捉え方を手に入れることができるから。そこからが本当の勝負だ。自分の人生を生きるスタートに立つことができるのだから。
なんでもいいからまずは逃げないことだ。面と向かってそれはなんでなのか考えろ。そしてわからないなら聞けばいい。疑問があるなら正々堂々真っ正面からぶつかってくればいい。
決めつけるな。人の心なんて読むことはできないのだから。
自分は自分にしかわからない。
だから、どんな時も本質を忘れずそして追求することをやめず、自分のために、価値ある人間としてこれからも生きていくために、毎日毎日学びをやめず、少しづつでも心を大きく、そして成長をしていくこと。
行動しよう。自分のために。